「うちの子、虫が大の苦手で。森のお散歩には連れていきたいんですけど、虫が出たら大泣きしちゃうかもしれません」
森のようちえんの説明会で、お母さんお父さんから一番よく聞く言葉です。家ではゴキブリやクモを見ただけで悲鳴をあげる、ダンゴムシすら触れない。そんなお子さんを抱えるご家庭は、本当に多い。
ところが、不思議なことが起きます。森に入って一時間もすると、その「虫がキライな子」が、しゃがみ込んで地面の何かをじっと見つめている。よく見ると、葉っぱの上を歩く小さなアリです。さらに三十分もすると、今度は手のひらに乗せている。家ではあれだけ嫌がっていた、あの「虫」を。
私は森のようちえんや親子向けの自然体験プログラムに10年以上関わってきた自然体験指導員です。これまで何百組もの親子さんと一緒に森を歩いてきました。その中で、繰り返し目撃してきたのが、この「キライだったはずの子が、いつの間にか虫の隣にしゃがんでいる」という光景です。
なぜ、こうしたことが起きるのか。子どものなかで何が動いて、何が変わっているのか。そして、大人はそこで何ができて、何をしないほうがいいのか。この記事では、そんな話をお伝えします。お子さんが虫を好きになる「魔法の方法」ではありません。むしろ、すでにお子さんのなかにある力を、邪魔せずに育てていくためのヒントです。
「虫がキライ」は、本当の気持ちなのか
まず、最初の問いから始めたいと思います。「虫がキライ」とお子さんが言うとき、その「キライ」は、どこから来ているのでしょうか。
「キライ」の中身は、たぶん「分からない」
子どもがあるものを「キライ」と言うとき、その中身は大人が思うよりずっと曖昧です。たとえば、ピーマンが嫌いな子に「どんな味が嫌?」と聞くと、たいてい答えは出てきません。味というより、「なんとなくキライ」と感じている。虫も同じです。
子どもにとって、虫は「動きが予測できない、よく分からないもの」です。突然飛ぶ。急に方向を変える。羽音がする。脚がたくさんある。見たことのない色をしている。これだけ「分からない」が重なれば、子どもが警戒するのは当然です。
つまり、「キライ」の正体は、嫌悪というより「未知への身構え」に近い。だからこそ、知ったとたんに変わる余地があります。「アリは葉っぱの汁が好きなんだよ」「ダンゴムシは枯れ葉を食べて、土に帰してくれるんだよ」と、ひとつ役割が分かるだけで、その虫は「分からないもの」ではなくなります。
恐怖は親の表情から学ばれている
もう一つ、見落とされやすいポイントがあります。子どもの「キライ」は、生まれつきのものではなく、まわりの大人の反応を観察して身につけたものが多い、ということです。
発達心理学に「社会的参照(ソーシャル・リファレンシング)」という言葉があります。生後8〜10か月ごろから赤ちゃんは、新しいもの、知らないものに出会ったとき、近くにいる信頼できる大人の表情をうかがいます。大人が笑顔なら「これは大丈夫なんだ」、大人が眉をひそめたら「これは危ないんだ」と判断する。そうやって、世界を学んでいきます。
つまり、お母さんがクモを見て「キャーッ」と叫べば、子どもは「クモは叫ぶほど怖いものなんだ」と学習します。お父さんがダンゴムシをつまんで「うわ、気持ち悪い」と顔をしかめれば、子どもは「ダンゴムシは触ってはいけないものなんだ」と学びます。
これは責められる話ではありません。私たち大人だって、同じように親や周囲から学んできました。ただ、知っておくと役に立つ事実だと思います。子どもの「虫キライ」の半分くらいは、もしかしたら、私たち大人から受け取ったものかもしれない、ということです。
それでも残る、生きものへの引力
ここで大事な点があります。たとえ「虫はキライ」と頭で覚えていても、子どもの体のなかには、生きものに引き寄せられる力が、ちゃんと残っています。
3歳くらいの子どもを観察していると、面白いことに気づきます。「キライ」と言いながら、目はしっかりその虫を追っているのです。本当に苦手なら、視界に入れないようにするはずです。でも、見てしまう。気になってしまう。これは、好奇心の引力が働いているサインです。
子どもの「キライ」は、好奇心と紙一重です。「分からない」と「気になる」は、コインの裏表のような関係にあります。だから、安全な状況さえ整えば、コインは簡単に裏返ります。森のなかで何度も目にしてきたのは、まさにその瞬間でした。
森に入ると、子どもは虫を見つけてしまう
家ではあれだけ虫を避けていた子が、なぜ森ではむしろ虫を探しているのか。これには、自然のフィールドそのものが持つ仕組みが関係しています。
花は入り口、虫は奥の扉
森や野原で、子どもがまず反応するのは、たいてい花です。色が鮮やかで、形がはっきりしていて、目立つから。タンポポを摘む。シロツメクサで冠を作る。スミレの紫を見つけて駆け寄る。
ここまでは、虫が苦手な子でも安心して楽しめる時間です。花は動かないし、声も出さない。子どもにとって、自然のなかで一番分かりやすい「友だち」です。
ところが、花とじっくり遊んでいると、必ず気づくことがあります。「あれ、花のところに何かいる」。ミツバチがブーンと飛んでくる。アブラムシが茎にびっしりついている。テントウムシが葉の裏で休んでいる。
花は、子どもを自然の世界に招き入れる入り口です。そして、その入り口を通り抜けた子どもの目の前には、必ずもう一つの扉があります。それが「虫」という、もっと奥の世界への扉です。花から入った子は、いつの間にか虫の前に立っています。
動くものを追う目は、ヒトの本能
人間の目は、動くものを追うようにできています。これは生存のために身につけてきた仕組みです。動くものは、食べものか、敵か、仲間か。そのどれかである可能性が高い。だから、私たちの脳は動きに敏感に反応します。
子どもはこの本能がむき出しのまま生きています。だから、葉っぱの上を歩くアリを発見すると、目が釘付けになります。チョウチョウがひらひら飛んでいけば、本人の意思とは無関係に首が動きます。「キライ」と言葉では言っていても、目はちゃんと追っている。
森のなかは、こうした「動く小さな命」の宝庫です。家のなかでは、虫は突然現れる「異物」です。でも森では、動いているのが当たり前。むしろ動いていないものを探すほうが難しいくらいです。子どもは、動くものに囲まれた状態に置かれると、最初は身構えますが、しばらくすると「これが普通なんだ」と感覚をリセットします。
花のまわりに必ず命がいる、という発見
森を歩いていて、ある女の子(4歳)が私にこう言ったことがあります。「あのね、お花のところに、いっつも虫さんがいるの」。
これは、ものすごい発見です。彼女は、花と虫が無関係に存在しているのではなく、つながっているということに気づいたのです。ミツバチは花の蜜を吸いに来ている。チョウは花から花へ卵を産みに行っている。アリは花のまわりで蜜を運んでいる。
このつながりに気づくと、子どものなかで何かが変わります。虫は「いきなり飛び出してくる怖いもの」ではなく、「花のところに住んでいる、お友だち」になります。世界の見方が、ぐっと立体的になります。
国立青少年教育振興機構の調査研究によると、幼少期に自然体験が豊富な子どもは、その後の人生で積極性や自然への関心、協調性が高くなる傾向があるとされています(国立青少年教育振興機構 調査研究)。これは、外で走り回ったから、というだけではなく、自然のなかで「つながり」を発見した経験が、子どものなかに残るからではないかと、私は考えています。
「キライ」が「気になる」に変わる瞬間
ここからは、もう少し細かい場面に入っていきます。森のなかで、子どもの「キライ」が「気になる」に変わる、その具体的な瞬間です。
観察するうちに、見え方が変わる
ダンゴムシが苦手な男の子(5歳)がいました。最初は遠くから「うわぁ、虫がいる」と言っていました。私は何も言わず、ダンゴムシの隣にしゃがみました。
5分くらい、私は黙ってダンゴムシを見ていました。男の子も、少し離れた場所から私を見ていました。10分くらい経つと、男の子は私の横に来て、ダンゴムシをのぞき込みました。
「これ、何してるの?」「何か食べてるみたいだね」「葉っぱ食べてるの?」「うん、たぶんね。ダンゴムシは枯れ葉を食べて、土に帰してくれるんだよ」「へぇ……」
それから30分、その子はダンゴムシをずっと観察していました。ダンゴムシが歩く速さ、丸まる瞬間、また伸びる動き。ひとつひとつの動作が、彼にとって新しい発見でした。30分後、彼はダンゴムシを手に乗せていました。「ぼく、ダンゴムシだいすき」と言って。
観察するというのは、ただ見るのとは違います。じっと見ているうちに、対象の輪郭がはっきりしてきて、動きのパターンが見えてきて、「あ、これはこういう生きものなんだ」と分かるようになる。分かれば、もう「キライ」ではいられなくなります。
触れてみると、温度がある
虫を触る、というのは、子どもにとって大きな一歩です。私はけっして「触ってごらん」とは言いません。子どもが自分から手を出すまで、待ちます。
そのときが来ると、子どもは慎重に、おそるおそる、人差し指の先で虫に触れます。そして、ほぼ全員が同じことを言います。「あったかい」「やわらかい」「動いた」。
この瞬間、子どものなかで虫は「映像」から「生きもの」に変わります。スマホの画面で見る虫と、目の前で動く虫は、まったく違う存在です。さらに、自分の指先で温度を感じた虫は、もう完全に別のものになります。重さがある。脈がある。意思がある。
レイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』のなかで、子どもにとって大切なのは「知る」ことより「感じる」ことだと書いています(新潮社『センス・オブ・ワンダー』)。知識は感じることの土壌の上に育つ、と。指先に伝わる小さな振動は、まさに「感じる」体験そのものです。図鑑では絶対に得られない情報が、そこには詰まっています。
センス・オブ・ワンダーが目を覚ます
「センス・オブ・ワンダー」は、日本語にすると「神秘さや不思議さに目を見張る感性」です。子どもは、もともとこの感性を豊かに持って生まれてきます。ただ、放っておくと、社会のなかで少しずつ覆われていきます。
森のなかで虫と出会った子どもの顔を見ていると、その感性が一瞬で目を覚ますのが分かります。目がきらきらする。口が「あ」の形に開く。動きが止まって、世界が虫だけになる。あの表情を見せてくれるのは、本当に嬉しい瞬間です。
そして、この体験は一回でも残ります。たとえ次の日に家に帰って、またクモを見て叫んでしまったとしても、森で見た虫の記憶は、子どものなかで生きています。それは、いつかまた目を覚ます種のようなものです。
虫から学ぶ、小さな命とのつき合い方
虫との出会いは、ただ「怖くなくなる」というだけの話ではありません。子どもにとって、もっと大事なものを教えてくれます。
力加減は、生きものでしか覚えられない
ある日、4歳の女の子がカマキリを持って遊んでいました。最初、彼女はカマキリをぎゅっと握っていました。私は静かに「あんまり強く持つと、カマキリさん痛いよ」と声をかけました。彼女ははっとして、手の力を緩めました。
それから彼女は、長い時間をかけて、自分の手の力を調整していました。強すぎても、弱すぎても、カマキリは逃げてしまう、もしくは元気がなくなる。ちょうどいい力で持つには、どうしたらいいか。
これは、生きものを相手にしないと学べないことです。ぬいぐるみを強く握っても、ぬいぐるみは何も言いません。でもカマキリは、力が強すぎれば動かなくなり、弱すぎれば逃げていきます。フィードバックがリアルタイムで返ってくる。
子どもはこの経験を通じて、「自分の力をどう加減するか」を学びます。これは、人とのつき合いにもつながっていく大切な感覚です。お友だちを強く押してしまう。物を乱暴に扱う。そういう子に必要なのは、生きものを優しく持つ経験です。
命のはかなさに、はじめて触れる
虫と遊んでいると、悲しいことも起きます。手のひらに乗せていたチョウが、いつの間にか動かなくなる。捕まえたバッタが、翌朝には冷たくなっている。
これはつらい経験です。子どもは泣くこともあります。私はそういうとき、慰めの言葉を急いで言いません。一緒に静かに座って、亡くなった虫を見ます。
ある男の子は、捕まえたカブトムシが死んでしまったとき、しばらく無言で立ち尽くしていました。それから、私を見上げてこう言いました。「虫さんって、ずっとは生きてないんだね」。
そうだね、と私は答えました。それ以上の言葉はいりませんでした。
命にははじまりと終わりがある。そして、その命を握っているのは自分の手だ。この感覚を、絵本や授業ではなく、自分の体験として知ることは、子どもにとって本当に大事な財産です。同情と共感の根っこは、ここで育ちます。
「ぼくのこと知ってる」と感じる距離感
虫との関係が深まってくると、子どもは虫に対して名前をつけ始めます。「このダンゴムシは、ダンちゃん」「このアリは、たろう」。
これは子どもなりの距離の取り方です。名前をつけることで、目の前の虫は「その他大勢の虫」ではなく、「自分の知っている、特別な一匹」になります。
そして、面白いことに、子どもはこう言うことがあります。「たろうは、ぼくのことを知ってる気がする」。
科学的に言えば、アリが特定の人間を識別するというのは難しいかもしれません。でも、子どもの感覚としては、そう感じる瞬間があるのです。これは関係性の発見です。私が一方的に見るだけの存在ではなく、相手にも世界があって、その世界のなかに自分が含まれているかもしれない、という感覚。
これは大きな意味を持ちます。世界は自分のためだけにあるのではなく、いろいろな命が同時に暮らしている場所だ、と知ることです。共生という言葉を、頭ではなく体で理解する第一歩がここにあります。
大人ができること、しないでいいこと
ここまで、子どものなかで起きていることを書いてきました。最後に、大人がどう関わればいいかをお伝えします。といっても、たくさんやることがあるわけではありません。むしろ、しないでいいことのほうが多いかもしれません。
森のようちえんの活動を全国で支援しているNPO法人森のようちえん全国ネットワーク連盟も、「子ども自身で考え行動できる雰囲気をつくる」ことを大切な指針としています(NPO法人森のようちえん全国ネットワーク連盟)。大人が用意するのは舞台ではなく、雰囲気です。
| 大人がしないほうがいいこと | 代わりに大人ができること |
|---|---|
| 「キライって言わないの」と否定する | 「キライなんだね」と一度受けとめる |
| 「ほら、こんなにかわいいよ」と先回りする | 子どもの視線が向くまで待つ |
| 「これは〇〇という虫だよ」とすぐ説明する | 子どもの「なに?」を待ってから答える |
| 自分が苦手でも顔に出して避ける | 苦手なら静かに距離をとる、騒がない |
| 「触ってごらん」と促す | 子どもが自分から手を出すまで待つ |
「キライ」を否定しない
子どもが「虫キライ」と言ったとき、ついやってしまうのが「そんなこと言わないの」「キライなんて言ったらかわいそうでしょ」と否定することです。
これは、あまりおすすめできません。否定されると、子どもは「キライって思っちゃいけないんだ」と感じます。すると、本当の気持ちを言えなくなります。気持ちを言えなくなると、自分でその気持ちを扱えなくなります。
代わりに、まず受けとめます。「そうなんだ、キライなんだね」「びっくりしちゃったね」。それだけで十分です。受けとめてもらった気持ちは、あとで子ども自身が変えていくことができます。
先回りして説明しない
虫を見つけたとき、大人はつい知っていることを教えたくなります。「これはアリさんだよ。アリさんは働きものなんだよ」「これはテントウムシ。アブラムシを食べてくれるんだよ」。
ぐっと我慢してください。子どもがまだ「見ている」段階のときに、言葉を入れすぎると、子どもの観察を中断させてしまいます。観察は、言葉になる前の段階です。じっと見て、感じて、不思議に思う。その時間を大事にしたい。
子どもから「ねぇ、これなに?」と聞かれてから、答える。それで遅くありません。むしろ、聞かれたときに答える情報のほうが、子どもにすっと入ります。
自分の表情だけ整えればいい
最後に、これが一番大切かもしれません。大人ができる最大の貢献は、自分の表情と声を整えることです。
虫が出たとき、平気な顔をする。少なくとも、悲鳴をあげない。これだけで、子どもの「社会的参照」のシステムは「あ、これは大丈夫なんだ」と判断します。
無理に好きになる必要はありません。私だって、家のなかに大きなクモが出たら、正直あまり嬉しくありません。でも、子どもの前では、ふつうの顔をしようと心がけています。「あ、クモがいるね。窓から外に出してあげようか」と、淡々と扱う。それだけで、子どものなかで虫は「特別に怖いもの」ではなくなっていきます。
苦手なものを「平気」にする必要はありません。「騒がない」だけで十分です。
まとめ
虫がキライな子が、森に入ると夢中になる。この一見ふしぎな現象の背景には、いくつかの仕組みがあります。
「キライ」の正体は、たいてい「分からない」です。それは、知れば変わるものです。子どもは生まれつき生きものに引き寄せられる力を持っていて、森のなかでは動くものに目が向きます。花から入った子どもは、必ずその先で虫と出会います。そして、観察し、触れ、温度を感じた瞬間、虫は「映像」から「生きもの」に変わります。
そこから先で子どもが学ぶのは、力加減、命のはかなさ、相手にも世界があるという感覚です。これらは、生きものを相手にしないと身につかないものばかりです。
大人がやることは、たくさんありません。「キライ」を否定しない。先回りして説明しない。自分の表情を整える。これだけです。あとは、子どものなかにすでにある力が、ちゃんと働きはじめます。
お子さんが「虫キライ」と言ったとしても、心配しないでください。それは出発点であって、ゴールではありません。森に連れていって、しゃがんで、待っていてあげてください。子どもの目が、何かに釘付けになる瞬間が、必ず来ます。そのとき、お子さんは、花の次の扉を開けています。その扉の向こうには、小さな命がたくさん住んでいる、豊かな世界が広がっています。
